はじめて立軌展に出品したのは、まだ30代の終り頃だったと思う。当時は、入会した1年は、試されるような招待だった。「ああ、こういう会で発表できたら」と漠然と思っていたのに、いざ出品してみると緊張するばかりだった。
須田寿先生は画集の中で「戦争で生きるか死ぬかの道を通ってきたのだから、このへんで自分のほんとうに考えることをやらなくちゃ、というわけで、それにはまず境遇を変えようというので、住みなれた日展を去って、ちょうど仲間もいたので立軌会をつくったのです」と記しておられる。その仲間が牛島先生、山下先生、飯島先生でいらした。
牛島憲之先生には、私の藝大時代、京都奈良の古美術研究旅行を引率していただいた。あの穏やかな目で学生の作品をご覧になり、ひとこと「結構ですね」。しかし、実際には少しも「結構」ではなく、成績は不可だったという。先生の厳しさは上級生からよく聞かされていた。須田先生は能に造詣が深く、何でもない樹々や石、鳥、牛、インドやモロッコの風景などを描いておられた。黒を基調とする抑えた色彩の画面は象徴的で、深い精神性を感じさせた。山下大五郎先生は安曇野をテーマにした湿潤な画風で、日本風景の頂点を極められていた。
飯島一次先生は、絵画の規則に捕らわれない自由で洒脱なセンスのある作品を展開されていた。どの先生も独自の世界を完成されていた。穏やかに見える会も、年に一度の展覧会に向かう先生方の姿勢は真摯で厳しかった。
わずかな期間であったが、創立会員の先生方に接することができて、今日まで発表の場を与えられたことは何と幸いだっただろうか。
小川イチ先生の密やかな桜の作品や、五百住乙人先生の深く沈潜した作風は、立軌会だからこそ結実されたと思うのは失礼だろうか。
創立当時の先生方が去られ、その後は笠井先生を中心に今は若い世代の作家が増え、私はたくさんの刺激を受けている。近年では笠井先生を助け、運営を支えた桝田さん、栗原さん、久野さんが相次いで旅立たれたことが、とても残念で淋しい。
絵画という迷路で未だ模索を続ける私だが、できる限り静かに描き続けたい。