立軌会 RYUKIKAI since 1949

同人紹介 > 志村 節子
  • 東京に生まれる
  • 1967 東京藝術大学油画科卒業、’70 同大学院修了。女流画家協会展に毎回出品(受賞5回)
  • 1972〜75 フランス政府給費留学生として渡仏 パリ、エコール・デ・ボザールに学ぶ
  • 1976 個展(サヱグサ画廊) 昭和会展に招待出品(日動画廊’86まで10回出品)
  • 1980 立軌会展、以後毎年出品
  • 1983 個展(資生堂ギャラリー)
  • 1984 日本青年画家展(日本橋・三越、〜’88年まで毎年出品)
    現代女流美術展(上野の森美術館)
  • 1986〜98 朝日新聞 黒井千次・「北向きの窓から」エッセイ挿画担当
  • 1988 志村節子展奏であう色と形(西武アートフォーラム主催)
  • 1991 読売新聞 黒井千次連載小説「捨てられない日」挿画担当
    第34回安井賞展(セゾン美術館)
  • 1993 個展および新聞小説挿画原画展(日本橋髙島屋)
  • 1994 朝日新聞 山田風太郎エッセイ「あと千回の晩飯」挿画担当
  • 1995 日本テレビ「美の世界」作品紹介・インタビュー
  • 1996 個展(夢土画廊)
  • 1998 個展および朝日新聞挿画原画展(日本橋髙島屋)
    「現代の精鋭作家たち展」(安田火災東郷青児美術館ほか)
  • 2000 志村節子展(銀座光画廊)
    NHK「土曜美の朝」作品紹介・インタビュー
  • 2002 志村節子絵画展 —風のかたち・のかたち—(銀座和光ホール)
  • 2004 志村節子展 —空間を浸蝕する線描の軋み—(菅原猛氏企画 色彩美術館)
  • 2006 個展(日本橋髙島屋) 文化庁派遣芸術家在外研修員として渡仏
  • 2011 「描かれた花」展(韮崎大村美術館)
    「明日の友」(婦人之友社) 表紙担当
  • 2012 志村節子展—刻のかたち—(日本橋髙島屋)
  • 2016 志村節子ドローイング展—眼を閉じて色と光を視る—(銀座・井上画廊)

 はじめて立軌展に出品したのは、まだ30代の終り頃だったと思う。当時は、入会した1年は、試されるような招待だった。「ああ、こういう会で発表できたら」と漠然と思っていたのに、いざ出品してみると緊張するばかりだった。
 須田寿先生は画集の中で「戦争で生きるか死ぬかの道を通ってきたのだから、このへんで自分のほんとうに考えることをやらなくちゃ、というわけで、それにはまず境遇を変えようというので、住みなれた日展を去って、ちょうど仲間もいたので立軌会をつくったのです」と記しておられる。その仲間が牛島先生、山下先生、飯島先生でいらした。
 牛島憲之先生には、私の藝大時代、京都奈良の古美術研究旅行を引率していただいた。あの穏やかな目で学生の作品をご覧になり、ひとこと「結構ですね」。しかし、実際には少しも「結構」ではなく、成績は不可だったという。先生の厳しさは上級生からよく聞かされていた。須田先生は能に造詣が深く、何でもない樹々や石、鳥、牛、インドやモロッコの風景などを描いておられた。黒を基調とする抑えた色彩の画面は象徴的で、深い精神性を感じさせた。山下大五郎先生は安曇野をテーマにした湿潤な画風で、日本風景の頂点を極められていた。
 飯島一次先生は、絵画の規則に捕らわれない自由で洒脱なセンスのある作品を展開されていた。どの先生も独自の世界を完成されていた。穏やかに見える会も、年に一度の展覧会に向かう先生方の姿勢は真摯で厳しかった。
 わずかな期間であったが、創立会員の先生方に接することができて、今日まで発表の場を与えられたことは何と幸いだっただろうか。
 小川イチ先生の密やかな桜の作品や、五百住乙人先生の深く沈潜した作風は、立軌会だからこそ結実されたと思うのは失礼だろうか。
 創立当時の先生方が去られ、その後は笠井先生を中心に今は若い世代の作家が増え、私はたくさんの刺激を受けている。近年では笠井先生を助け、運営を支えた桝田さん、栗原さん、久野さんが相次いで旅立たれたことが、とても残念で淋しい。
 絵画という迷路で未だ模索を続ける私だが、できる限り静かに描き続けたい。

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